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独立党と事大党の対立

江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきた。

日朝修好条規締約後の朝鮮では日本の支援による兵制改革で軍人が失職し、残った旧式軍隊にも給与が遅配、開国後の貿易で日本への米輸出による米価高騰と食糧危機が民衆を圧迫していた。 1882年7月、旧式軍の兵士と市民が漢城で蜂起して新編成の「別技軍」の日本人教官らを殺害し日本公使館を包囲、翌日には政府と王宮を襲い領議政(首相)と旻氏系高官らを殺害、公使館が焼失し(公使自ら火を放つ)、日本人10数人が殺害される事態となった(壬午事変)。 日清両国が出兵、日本から軍を率いた花房義質公使が派遣され、8月30日、朝鮮と済物浦条約を調印し、日本人被害者への補償5万円、公使館の損害と日本の出兵への補填金50万円と公使館警護のため若干の軍隊の漢城駐留などを取り決めた。 事変後清は袁世凱らが指揮する軍隊を朝鮮に駐留させ、軍隊訓練や政府顧問をおくなど朝鮮の軍事や内政に積極的に関与した。
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1884年6月、ベトナムをめぐるフランスとの対立で朝鮮駐留清軍の半数が帰還し(清仏戦争)、事変後政治的に後退していた日本は竹添進一郎公使を10月30日漢城に帰任させ、済物浦条約の未払い分40万円の返上を申し出させた。 開化派は日本公使の支援を利用して事大派政権打倒を計画し、12月4日郵政局開局祝賀宴に際し事大派要人を襲撃、その後王宮内で6人の大臣を殺害するなどして5日に新しい政権を発足させたが、6日に清の武力介入により失敗した(甲申政変)。なお、4日夜から日本公使は警護兵百数十を連れて朝鮮王宮に国王保護の名目で参内して開化派を支援しており、重大な内政干渉である。 また、清軍との間に王宮で戦闘が続き、双方に死者を出したが、これは近代における日中間の最初の武力衝突となる。この時またも公使館が全焼し日本人に30数名の犠牲者を出し、日本国内では朝鮮、中国への反感が高まった。

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2009年06月01日 13:29に投稿されたエントリーのページです。

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