2009年06月19日

淡水や海水といった水圏に棲むものが最も多い

淡水や海水といった水圏に棲むものが最も多い。他に土壌性のものや、緑藻類のスミレモ(Trentepohlia aurea)のように気生藻として生活するものもある。

小型のものは、特に水圏では植物プランクトンとして、水中の生態系における一次生産者として重要な位置を占める。低温に耐えるものは、極圏の氷上や氷中に氷雪藻(スノーアルジー)、流氷下面などに海氷藻類(アイスアルジー)として存在する。反対にイデユコゴメ(Cyanidium caldarium)やシアニディオシゾン(Cyanidioschyzon merolae)のように、摂氏40℃以上の温泉環境に生息するものまで様々である。
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大型のものについては、海産のものは海藻と呼ばれ、潮間帯からある程度の深さに渡って生育し、場所によっては森林のような様相を呈する。岩に固着するものが多いので、岩礁海岸に多い。それらは生産者としてのみならず、動物のよりどころとして産卵場所、稚魚の隠れ家など、様々な役割を担っている。淡水では種子植物が多いためか大型のものは少なく、一部の淡水性の緑藻や紅藻が知られるに留まっている。

共生藻 [編集]
藻類の中には、他の生物との共生関係を持つものもある。宿主に光合成産物を提供する一方、保護や移動手段を得る例が多い。また造礁サンゴなどでは、宿主の石灰質骨格形成にも何らかの役割を果たすものと考えられている。

地衣類を構成するもの(菌類との共生)
緑藻類、藍藻類
刺胞動物(クラゲ、サンゴなど)
渦鞭毛藻類、特にSymbiodinium属(→褐虫藻)
原索動物(ホヤ)
藍藻類Prochloron、Acaryochloris marina
他の藻類、原生生物
渦鞭毛藻Amphidinium属、Dinophysis属 : クリプト藻類
繊毛虫Paramecium bursaria;ミドリゾウリムシ : 緑藻類Chlorella属
繊毛虫Mesodinium属 : クリプト藻類
有中心粒類Raphidiophrys viridis: 緑藻類Chlorella属
有孔虫類 : ハプト藻類
放散虫類 : ハプト藻類

2009年06月01日

独立党と事大党の対立

江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきた。

日朝修好条規締約後の朝鮮では日本の支援による兵制改革で軍人が失職し、残った旧式軍隊にも給与が遅配、開国後の貿易で日本への米輸出による米価高騰と食糧危機が民衆を圧迫していた。 1882年7月、旧式軍の兵士と市民が漢城で蜂起して新編成の「別技軍」の日本人教官らを殺害し日本公使館を包囲、翌日には政府と王宮を襲い領議政(首相)と旻氏系高官らを殺害、公使館が焼失し(公使自ら火を放つ)、日本人10数人が殺害される事態となった(壬午事変)。 日清両国が出兵、日本から軍を率いた花房義質公使が派遣され、8月30日、朝鮮と済物浦条約を調印し、日本人被害者への補償5万円、公使館の損害と日本の出兵への補填金50万円と公使館警護のため若干の軍隊の漢城駐留などを取り決めた。 事変後清は袁世凱らが指揮する軍隊を朝鮮に駐留させ、軍隊訓練や政府顧問をおくなど朝鮮の軍事や内政に積極的に関与した。
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1884年6月、ベトナムをめぐるフランスとの対立で朝鮮駐留清軍の半数が帰還し(清仏戦争)、事変後政治的に後退していた日本は竹添進一郎公使を10月30日漢城に帰任させ、済物浦条約の未払い分40万円の返上を申し出させた。 開化派は日本公使の支援を利用して事大派政権打倒を計画し、12月4日郵政局開局祝賀宴に際し事大派要人を襲撃、その後王宮内で6人の大臣を殺害するなどして5日に新しい政権を発足させたが、6日に清の武力介入により失敗した(甲申政変)。なお、4日夜から日本公使は警護兵百数十を連れて朝鮮王宮に国王保護の名目で参内して開化派を支援しており、重大な内政干渉である。 また、清軍との間に王宮で戦闘が続き、双方に死者を出したが、これは近代における日中間の最初の武力衝突となる。この時またも公使館が全焼し日本人に30数名の犠牲者を出し、日本国内では朝鮮、中国への反感が高まった。

2009年04月29日

神仏分離

神仏分離(しんぶつぶんり)は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。

その動きは早くは中世から見られるが、一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された神仏分離令(正式には神仏判然令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称)に基づき全国的に公的に行われたものを指す。

岡山藩や水戸藩、淀藩などの儒教が興隆した藩を中心に神仏分離政策が行なわれた。

神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、檀家制度のもとで寺院に搾取されていたと感じる民衆がこれに加わった。

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政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、明治5年3月14日(1872年4月21日)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し、神仏共同布教体制となった。

廃仏毀釈運動は明治以降、第二次世界大戦の敗戦まで一部の過激な神道家とこれに追随した一部民衆が行ったものの、一部地域を除き、民衆には普及しなかった。現代でも神社と寺院の違いが判らない者も多いという。中には神仏習合の風習を受け継いだり復興させたりするところもあるが、神道、仏教のそれぞれの内部では、お互いに忌避するむきもある。

2009年04月14日

太極拳

太極拳(たいきょくけん)は中国の長い歴史の中から生まれた中国武術の一つ。緩やかで流れるようにゆったりとした動きが特徴であり、健康、長寿にも良いとされ、中国などでは朝の公園などで集まって練習している姿も見られる。武術が持つ一般的な激しいイメージとは対照的に、コントロールされたゆっくりとした動きを多く含む。 日本国内でも、太極拳の愛好者は年々増えつつあり、自治体単位で太極拳を推進しているところもある。例えば、福島県喜多方市では、「太極拳の街」宣言を行っており、市民単位で、毎朝、太極拳の練習が行われたり、市役所内においても、昼休みに市長を先頭に太極拳の練習が行われるなど、積極的な取組みがなされている。

東洋哲学の重要概念である「太極」思想を取り入れた護身術および健康法。「太極」は「易経」から発し、宋代に発展した思想。「無極」とは、原始宇宙が陰陽未分化で混沌とした状態。そこから陰陽二極を生じて太極となる。形成万物(宇宙)の根源。太極拳のトレードマークになっている「太極図」は宇宙の運行を示す。

概説 [編集]
独特の、ゆったりとした動作から、実用的な武術ではなく健康体操と捉えられる場合が多い。また、気の抜けた緩慢な演武を行う者が多く、誤解を招きやすい。本来は緩やかな動きの中にも、緩急や緊張(張り)を内包する、重厚な風格をもつ。古い歴史と高い実用性、高度な技術を備えた武術である。太極拳では、全身の力を最大限に使うために姿勢に厳しい。姿勢・気の運用を学ぶ事で、発勁を習得する。尚、修練時は正しい姿勢を得る為に、特にゆっくりと行うのだが、これがわからない場合は奇妙な踊りとなる。

健康法として有名。日本で広く一般的に教えられている太極拳は、簡化二十四式太極拳と呼ばれ、複雑で難度の高い伝統的な太極拳を一般に広く普及させるために中国体育委員会が制定したもの。楊式太極拳をベースに重複する動作を省いて、覚えやすく、短時間で演武できるように纏められている。その意味では、普通に見かける太極拳は明らかに健康体操そのものである。

起源 [編集]

伝説的起源 [編集]
その昔、張三豊という人が少林寺で武術を修めた後に武当山に入って修行をし、道教の陰陽五行説の思想や吐納法という呼吸法を取り入れて編み出したものが太極拳であるとの説話がある。張三豊は中国の他の伝説にも現れる不老長寿の仙人の名前であり、武術との関連は明らかではなく伝説の域を出ない説である。


歴史的起源 [編集]
実際の起源については現在も議論があるが、武術史研究家唐豪以来の通説は、河南省(元朝に加担したため明の太祖洪武帝の「犬の子一匹、生きて残すな」という殺戮によって無人地帯と化していた)温県常陽村 ( 現・陳家溝 )に強制移住させられた陳一族に家伝として伝えられていた武術が起源であるとする。その創始者については諸説あり、明末・清初に武人として活躍した陳王廷(1600年頃~1680年頃)が家伝の武術(明朝初期に陳氏一族が温県に強制移住を命じられるまで住んでいた洪洞県に今も伝わる通背拳か?)や諸家の武術、戚継光の『紀校新書』などを参考に創始したと伝えられる。(洪砲捶百八拳、五套捶、陳式長拳、十五洪、十五砲)しかし、その底流にあるものは黄帝経などの道教の養生法、漢方医学であり、それらの研鑽の成果としてできあがったと考えるのが妥当であろう。陳氏の武術は一族と村を守る武術として発展し、それ故に門外不出とされていたが、清代末に河北省永年県広府鎮の楊露禅がこの拳法を会得して、北京に赴き広めた。拳理(武術理論)として王宗岳の『太極拳論』が重視されたため、そこから「太極拳」という名称が用いられるようになったといわれる。

なお、陳家以外に広く認められた主な伝承は以下の通り。
陳長興(陳式老架式)→楊露禪(楊式小架)→……→楊澄甫(現代楊式)
陳青萍(趙堡架式)→武禹襄(武式)→……→郝為真(武式)→孫祿堂(孫式)
楊露禅→楊班侯→呉全佑(呉式初代)
呉全佑→呉鑑泉(呉家派)
呉全佑→王茂齋(呉式北派)

種類 [編集]

伝統拳 [編集]
武術として継承されてきた伝統的な太極拳は、後述の制定拳に対して「伝統拳」と呼ばれる。伝統拳はその伝承系統や各伝人によって内容にさまざまな違いがあるが、「伝統五派」という五つの系統に分類するのが普通である。伝統五派は、それぞれ創始者あるいは代表的な継承者の姓をとって、陳、楊、呉、武、孫の名を冠する。かつては「陳氏太極拳」「楊家太極拳」のような名称が多く用いられていたが、第2次世界大戦後は中国をはじめとして「陳式太極拳」のように「?式」と呼称するのが一般的である(中華民国では現在も「?氏」と呼称するのが一般的である)。近年、従来は陳式の一派(趙堡架式)とされていたものが、和式(かしき)太極拳として認定された。各流派に分かれているが、共通の基本功として「十三勢」があり、基本功が習得された後、「套路」、「推手」、「散手」と進むのが一般的である。また、十三勢の中に流派ごとにさらに細かい「太極拳の技法」がある。

また、伝統拳はそれぞれの門派において剣、刀、杆、槍などの器械(武器)を用いた套路を伝承しており、門派毎に伝承内容は異なる。中国武術において器械は手の延長と見なされ、徒手の応用であると同時に、一種の練功法として行われている。太極拳においても、太極剣、太極刀など(器械套路)と太極拳(徒手套路)は同一原理に基づくものであり、器械を練習することによって太極拳の理解がより深まり、武功の成長が促されると考えられている。例えば、剣尖まで勁を伝えるように剣を練習をすることで、全身を協調させて運勁し、発勁するための有効な練習となる。また、剣には刃がついているため、徒手より動作に意識が集中しやすく、気功的あるいは武術的鍛錬として高い効果が期待できる。
陳式太極拳
全ての太極拳の源流であり(但し異論もある)、河南省陳家溝の陳一族を中心に伝承されてきた。動作は剛柔相済、快慢兼備を特徴とし、太極拳に特徴的な柔軟さや緩やかな動きだけではなく、震脚(全身を沈め、強く脚を踏みしめる動作)、豪快な発勁を伴い、纏絲勁によって全身の勁を統一的に運用する。一般的な太極拳のイメージからすると、特に二路(砲捶)は「剛」の印象を与える風格であるが、高齢の達人の拳風は内勁重視のため、むしろ楊式や和式を連想させる緩やかなものである。また陳氏の太極拳には大別すると平円重視の大架式と立円重視の小架式の2つのスタイルがあり、大架式からは新架式が派生し、新架式からは趙堡架式が派生した。20世紀に入り、陳発科が北平(北京)で大架系統を教授してから一般に広まったといわれる。
楊式太極拳
陳家溝で太極拳を学んだ楊露禅が北京に出向き伝えた。露禅は実戦高手として楊無敵と讃えられ、その評判故に請われて多くの者に教授した。その拳は非常に柔らかな動きで、「綿拳」「化拳」と称されたと伝えられる。その後も露禅の子、孫と三代にわたって楊式は改変され、現在普及しているのは露禅の孫楊澄甫が伝えた大架式の套路である。楊式にも動作に緩急を伴う小架式及び二路砲捶が存在するが、最も普及した大架式の動作はのびのびとして柔らかく、発勁法は緩やかな暗勁(激しい打撃動作を行わない発勁の仕方)であるため、最も広く行われている。
楊式太極拳の理論書としては、楊班侯伝の「太極拳九訣」や楊澄甫伝の「太極拳老譜三十二解」がある。
後述の制定拳は楊式をベースにして構成されている。
呉式太極拳
楊露禅の子楊班侯に師事した呉全佑(満州族出身)とその子呉鑑泉によって確立した。呉鑑泉が上海精武体育会で教授したため、香港を中心として中国国内はもとより、とりわけ華僑の間に普及した。動作は緊密でまとまっており(小架式)、楊式初期の風格を残していると言われる。満州族のシュアイジャオ(投げ技を中心とする武術)に由来するといわれる前傾姿勢が特徴的である。伝承系統によって歩距や架式の高さに比較的違いが大きい。
武式太極拳
楊露禅の支援者武禹襄が露禅に学んだ後、河南趙堡鎮の陳清萍に学び、さらに工夫を加えて成立した。武禹襄は太極拳の理論化に貢献した。近代の「太極拳」の名は、武禹襄の兄秋瀛が再発見した王宗岳の「太極拳譜」に由来するといわれる。武式は太極拳の精華と評され、厳密な身体の運用と実戦的側面を伝える門派である。しかし、武禹襄が親族にしか伝拳せず、その後も近年まで保守的であったため、伝承者はきわめて少ない。著名な伝人郝為真の姓をとって「郝式」と呼ばれることもある。
孫式太極拳
高名な武術家孫禄堂が、郭雲深に学んだ形意拳の歩法、程廷華に学んだ八卦掌の身法、郝為真(武式)に学んだ太極拳の手法を統合して完成させた、孫家拳を代表する套路である。開合によって動作を連関し、快速な活歩によって転換するため、一名「開合活歩太極拳」と称される。

分派 [編集]
和(か)式太極拳
従来陳氏の一派(趙堡架式)と見なされてきたが、近年、代表的伝統太極拳として認定された。初代和(か)兆元は陳清萍(陳式)に学んだが、発勁は暗勁が主で、独自の風格を備える。二路套路を持たない点も陳式と異なる。
他にも、主に陳清萍に学んだ李景炎が創始した忽雷架式は、綿密な段階的教授法と独特の発勁技術が、他派にない特徴として注目されている。
鄭子太極拳

楊式太極拳の第三代伝人の楊澄甫の弟子である鄭曼青が楊式太極拳を整理し三十七式にまとめたもの。楊式からこの三十七式が認められなかったこと、さらに楊式よりもさらに柔らかくこじんまりとした動きであることなどから別式とされている。套路(型)は37式、武器は剣(楊式太極剣)、推手、さらに台湾系の系譜ではこれに内功(気功)が加わるだけの最小主義の太極拳で簡易太極拳と言われることもある。
鄭曼青は五絶老人とも呼ばれ「詩、書、画、医、武」に優れ文人、医者としても名高く台湾に移住後、さらにニューヨークに移り、漢方医として活躍する傍らで太極拳を教えた。中国人、欧米人の区別なく太極拳を伝授したため結果として欧米に最初に太極拳を広めることになり他の太極拳が欧米で教えられるようになるまでは欧米で太極拳といえば鄭曼青の三十七式であった。
鄭子太極拳とは「鄭先生の太極拳」といった意味だが、これは鄭自身が一派をなしたとは考えなかったことと、五絶老人に対する敬意としてこのように呼称される。
太極拳の健康効果は以前より知られていたが、必ずしも万人が習得することのできる平易なものではなかった。中国政府は第2次世界大戦後、伝統拳の健康増進効果はそのままに、誰にでも学ぶことのできる新しい太極拳を意図し、国家体育運動委員会が著名な武術家に命じて套路を編纂、普及に努めた。これを伝統拳に対して「制定拳」と呼ぶ。制定拳は楊式太極拳大架式をベースにして重複動作を避け、難度の高い動作を簡略化しつつ、太極拳のエッセンスをまとめたものである。套路毎に動作の数が違うため、各套路は「二十四式」のように動作の数で呼ばれることが多い。

簡化太極拳(二十四式太極拳)
簡化太極拳は最初の制定拳として1956年に発表された。楊式太極拳の主要な二十四の動作から構成されており、そのため「二十四式太極拳」とも呼ばれる。外国でもジムなどでヨーガなどと一緒に教えられることが多く、全世界で練習され、健康運動としての太極拳の普及に大きく貢献している。日本の太極拳教室で健康のために教えているものはほとんどの場合、この簡化太極拳である。楊式を基礎としているので本格的な楊式の入門用の套路として教えられることもある。
ただし手を振る動作の覚えやすさに重点が置かれ、基本動作の十三勢の反復をおろそかにしているなど健康面でも武術面でも太極拳の本質を伝えにくいなどの理由で伝統的な太極拳家の間では不評である。二十四式太極拳の元になった楊式においては変わりに鄭曼青の三十七式を入門用の方として教えるところもある。また普及に伴って集体(グループ)表演や競技会が盛んに催されるようになり、簡化太極拳は結果的に、表演武術としての側面を太極拳に持たせることになった。太極拳とは健康運動、ひいては武術にあらずとの認識を広める一因となったとの批判が伝統拳の間に多い。
八十八式太極拳
二十四式太極拳に続いて、1957年に発表された。二十四式に適用した原理に基づいて楊式太極拳の動作を改めたもので、二十四式と同質性があり、二十四式の既習者には学びやすい套路である。拳式の順序は伝統的な楊式太極拳大架式に準じているが、動作原理が違うことや、李玉琳伝の楊式太極拳に基づいていることにより、一般に行われている楊式太極拳と動作に少なからず差異がある。
四十八式太極拳
二十四式太極拳の上級套路として、1979年に発表された。二十四式、八十八式とは異なって、楊式太極拳をベースにしながらも、陳式、呉式、孫式の動作を取り入れた、初めての総合太極拳である。二十四式より難度は高く、八十八式より表演時間は短く、動作が左右対称に整えられた総合套路であったため、一般に普及しただけでなく、競技会においても頻繁に行われる套路となった。
総合太極拳(四十二式太極拳)
80年代後半、太極拳の国際大会が催されるようになると、競技会用の套路が要望されるようになった。競技者自らが構成した「自選套路」では、優劣を判定することが難しいことが生じるからである。そこで陳氏、楊式、呉式、孫式の競賽套路、総合套路、遅れて武式の競賽套路が発表された。日本では「競賽」という語に馴染みがないため、競賽套路は「規定套路」あるいは「競技套路」などと呼ばれるのが普通である。こうして発表された総合套路が「総合太極拳」であり、動作の数から「四十二式太極拳」とも言われる。
総合太極拳は、四十八式と同様に楊式太極拳をベースにして、陳氏、呉式、孫式の動作を組み合わせて創られた套路である。四十八式よりも各門派の特徴的動作を明確に演ずることが出来、内外の競技会種目として採用されている。見栄えのする套路なので、中国では一般にも人気が高い。その一方で、競技性を念頭に置いて伝統拳の動作をつなぎ合わせたので、「連続性が悪くぎごちないところがある」「健康効果に比して身体への負担が大きい」などの批判もある。 
太極剣(三十二式太極剣、総合太極剣)
制定拳を行う者が器械入門として行えるよう、楊式太極剣をもとに編纂された套路が「三十二式太極剣」である。さらに競技用套路として、陳式、楊式、呉式の動作を組み合わせた「四十二式太極剣」(総合太極剣)があり、総合太極拳と並んで競技会で盛んに行われている。

制定拳は、「太極拳の(世界的)普及」(伝統文化としての太極拳)と「国民の健康増進」(保健手段としての太極拳)が当初の目的であったが、現在は「運動競技としての太極拳」の占める比重が大きくなっている。しかし、制定拳の武術的意味が再考されたり、健康効果を考慮した総合太極拳(三十二式太極拳)が編まれるなど新たな動きも見られ、今後の動向にも注目していく必要がある。

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2009年03月30日

セミヌード(Semi nude)

セミヌード(Semi nude)はヌード写真・映像のうち、肌の露出が比較的小さいもののことで、女性の場合「乳首」を隠しているヌードを主に指す。「セミ」は半分といった意味を表す英語の接頭語であり、全裸(オールヌード)に対しての半裸とでも訳されよう。男性の場合、セミヌードという表現はあまりしない。
セミヌードという言葉は話者の主観に頼る部分もあり、厳密な定義が難しい場合もある。

理屈からいえば水着姿や下着姿も裸に近いことになるが、通常はセミヌードとは言わない。セミヌードという言葉が示す意味は、ほとんどの場合「乳首を見せないヌード」ということである。また、薄い布や濡れたシャツをまとい乳首が透けている場合や、尻部を丸出しにした場合もセミヌードと言われることがある。
ルリマ カントリー おいずり ファラオ オーチャ バイバル ロカアォ パーカー トリミン ティラピ オール リージョ ダリア ドゥー ラーゲ ジフ スピコン プロテーゼ ツィリング アフロ 月下美人 シュート ソムリ レイド エアポ ピンポ レーキ パナビ いまかね ドレッ あかんち モルツ カイア スキッ チャートポ ベガス 紅葉 華ごころ リスト サーボ サイト紙燭 テレメ パステ コース オーナブリ ダット サーチアウト すなのみ ブールマ リーダー

通常、女性のヌードで、陰毛を見せている場合はヘアヌード、乳首を見せている場合はオール(フル)ヌード、乳首を隠している場合をセミヌードという使い分けをすることが多い。

ただし、最近の着エロ物などの場合、乳首は見せていないが、陰毛や場合によってはアナルを見せている物などもあり、一般的な定義では分類できない。

また、逆に、写真・映像等の話題性を高めることが求められる広告・報道などにおいては、しばしば誇張された表現が使われ、混乱を招く例も見られる(例:2004年の岩崎恭子のセミヌード)。井上和香の肩を出した広告写真がセミヌードとされたこともある(2003年)。[1]

女性のセミヌード
モデルが女性の場合、セミヌードのパターンとして次のようなものがある。上半身を脱いでいても背後から撮影したり、脱いだ衣装や手、小道具などを使って乳首を見せないようにする。

モデルは全裸だが、乳首・陰毛が写っていない状態(営業上、広告等で「フルヌード」と言い換えることがある)
モデルは半裸(上半身裸など)だが、乳首が写っていない状態
モデルがごく薄い衣類を身に付けており、体の輪郭や色が透けている状態
このほか、乳首が写っているトップレスの状態や、単に下着姿である状態もセミヌードと呼ばれることがあるが、一般的ではない。

なお、陰毛が写っている場合は全体の露出度が小さくてもヘアヌードとされるのが一般的である(例:スカートをたくし上げ、ショーツをずらす。上半身は着衣で下半身裸。など)

セミヌードは身体の一部が隠れるためモデル側の抵抗感が比較的少なく、また、ヘアヌード・オールヌードとは区別され、芸術的なイメージもあるためか、人気のある有名タレントが公開することもある。さらに、テレビCMやCDジャケットなどでは通常のヌードがはばかられるため、セミヌードとする場合が多い。

セミヌード小史
大正時代の赤玉ポートワイン(寿屋 (現:サントリー))のポスターは有名(1922年)。今日の基準ではソフトなもので、セミヌードといえないかもしれないが、当時は物議をかもした。

男性グラビア誌を中心に、全裸にはなっても、乳首だけは見せない、という強い主張をもったグラビアモデルの系譜があった。1980年頃、浅野裕子(浅野ゆう子)が月刊『プレイボーイ』誌で披露したセミヌードは、乳首こそ見せないものの、ほとんど全裸であり、ファンを驚かせた。武田久美子の一連の写真集は笹ふんどしや貝殻水着など大胆なポーズにも関わらず中々乳首を見せず、長い間ファンをイライラさせた(後にヘアヌードを発表)。渡辺美奈代も全裸になっても乳首は見せなかった。

また、一般的なセミヌードとは違うものの意外な露出として話題になったものとしては田村英里子の半ケツヌード、宮沢りえのふんどし写真などがある。

雑誌など [編集]
セミヌード写真を多く載せる雑誌はほとんどが男性誌である。ただし『アンアン』や『フラウ』などの一部の女性誌は女性に人気のある人物については男女問わずセミヌードを掲載している。男性誌ではなくこちらに登場する芸能人も多い。

男性のセミヌード [編集]
モデルが男性の場合、主な用法には以下のようなものがある。

モデルが全裸で、陰毛・陰茎が写っていない状態。
モデルが全裸で、陰毛が写っているが陰茎が写っていない状態。
モデルが上半身裸(トップレス)である状態。
このように、男性における「セミヌード」という語の用途は女性のそれと大きく異なる。とくに、乳首の露出の有無が重要視されず、また上半身裸が通常のヌードに分類されることがほとんどないことは両者の最も重要な違いであるといえる。

また、モデルの陰毛が写っている状態であっても、陰茎が写っていなければセミヌードに含める場合も多い。これはセミヌードの定義を前述の「完全なヌードではない状態」に設定していることになるが、女性とは違いこの定義が使われることは男性ではそれほど珍しいことではない。男性は腹部から陰茎が突出しており、全裸で前面から撮影すればこれがそのまま映像に写りこむのが自然な状態である。このため、陰茎の写っていない男性ヌードは不自然であり、完全なヌードとはみなされにくいのである。この状況は、外性器が突出しておらず陰毛に隠れることが多い女性とは対照的であるといえる。

ただし日本の場合、「男性ヌード」と称されるもののほとんどは陰毛が写っていない。前述のように、全裸の男性を正面から撮影すると陰茎が写ってしまうことが多いが、陰茎は日本国内においては通常修正が必要である。しかしこれを写さずに陰毛だけを画面内に収めようとすると不自然なポーズ・アングルをとらざるをえなくなることが多いため、日本の男性ヌード写真は必然的にセミヌードが多くなるのである。


2009年03月14日

ポルト

ポルト(Porto)はポルトガル北部の港湾都市。人口約263,000人。リスボンに次ぐポルトガル第二の都市。ポルト都市圏では、人口は約160万人を数える[1]。英語では伝統的にオポルト(オポートウ,Oporto)とも言う。

聖グレゴリウス聖堂、大聖堂、ポルサ宮、聖フランシスコ聖堂など市街地はポルト歴史地区として1996年に世界遺産に登録された。
せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ

大西洋に流入するドウロ川北岸の丘陵地帯に築かれ、河口に近い。ドウロ川にはドン・ルイス1世橋など4本の橋がかかる。
リスボンの北300キロに位置し、ポルトガル北部の中心地である。

歴史 [編集]

ポルトの歴史 [編集]
ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。ローマ時代の周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国が、ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。

ポルトを含む一帯は、イスラーム勢力に占領されたこともあったが、12世紀フランス王の一族であるアンリ・ド・ブルゴーニュがレコンキスタでこの地を奪回した。

1387年、ジョアン1世とイングランド王エドワード3世の第4子であるジョン・オブ・ゴーントの娘フィリパ・デ・ランカストルとの結婚式がポルトで行われた。イギリスとポルトガルの同盟関係は、この時代から始まっており、現代のNATOにまでつながる盟約関係である。

14世紀から15世紀にかけての大航海時代、ポルトで生産された船団は、ポルトガルの海軍の発展に大いなる貢献をした。1415年に、ジョアン1世の子供であるエンリケ航海王子は、ポルトを出発し、モロッコの地中海に面する港町セウタを攻撃した。エンリケ航海王子によるセウタ攻略がそれ以後のポルトガルの海外への雄飛への出発点であった。

18世紀から19世紀にかけて、ポルト港から特産ワインがイングランドに盛んに輸出され、英語でポートワイン(ポルト・ワイン)と呼ばれて有名になった。

世界遺産登録基準 [編集]
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

文化遺産 [編集]
クレリゴス教会 - 18世紀に建設されたバロック建築の教会。クレリゴスの塔の高さは、約70mある。
ポルト大聖堂 - もともとは、12世紀に建設された要塞であるが、17世紀から18世紀にかけて改修された。
ボルサ宮 - 1834年に、火災で焼失したサン・フランシスコ修道院の跡地に建設された。

2009年02月26日

アルシャード

神話に出てくる神々の力を受け継いだ英雄「クエスター」と、宇宙を蝕む虚無の勢力「奈落」との戦いを描いたテーブルトークRPG。ゲームの舞台となる世界は、『アルシャード』(初代)および『アルシャードff』ではテクノロジーが比較的発達したファンタジー風の異世界であるミッドガルド、『アルシャード・ガイアRPG』では現代の地球である。また、スタンダードRPGシステムの他のゲームの中には『アルシャード』シリーズにデータをコンバートすることが可能なものもあり、それにより別のゲームの世界を舞台に『アルシャード』の冒険を楽しむこともできる。(もしくは逆に別のゲームのキャラクターを『アルシャード』の世界で活躍させることもできる)

『アルシャード』は「今の日本人のゲーマーのための、スタンダードなテーブルトークRPGを作る」という意図の下に製作されたテーブルトークRPGであり、スタンダードRPGシステムの展開の中心に位置するゲームでもある。

デザイナーの井上によると、日本のテーブルトークRPGが『ダンジョンズ&ドラゴンズ』と『ソードワールドRPG』の二大ゲームのヒット以降「スタンダードなゲームスタイルはこれらに任せて、これから新しく作るゲームはニッチな需要に手堅く対応していこう」という流れが強くなり新しい時代にマッチしたスタンダードを作ろうとする意欲的な作品が現れなくなってしまったことに危機感を抱いて、「21世紀の日本市場にマッチした新しいスタンダードスタイルのRPG」を自ら作ることを目指したのだという。

システム面では、それまでの多くのテーブルトークRPGがプレイに長時間を要していたのに対し、短時間でプレイ可能でありながらもこれまでのテーブルトークRPGに劣らない満足感を得られることを主眼にデザインされている。このため、キャラクター作成の手間を省く「サンプルキャラクター」、シナリオ導入簡略化のための「ハンドアウト」、シナリオ目的の明文化「クエスト」、ストーリー上またはゲーム上重要ではないの冗長な部分を省く「シーン制」、とにかく彼を倒せばシナリオ終了であるところの「BOSS」、など本作が初出の概念ではないが、プレイを円滑に進めることに効果があるとされるルールを導入している。

「ダンジョンズ&ドラゴンズ」や「ソード・ワールドRPG」の後継たらんとも読める刺激的なまえがき、「新世紀スタンダードTRPG」という惹句、豊富なサプリメント出版などにより、アルシャードのシリーズ展開は「冬の時代」後のRPGムーブメントの一つの流れを形成した。

サプリメントによる頻度の高いデータ追加によって、ゲームバランスが変動していくことを肯定しているゲーム性は、多くの国産RPGよりも、D&Dなどの海外製RPGのパワーゲーム志向に近い。実際、国産ゲームの中ではデータ量やサプリメントが群を抜いて多い。

アルシャード(初代)
『アルシャード』シリーズの第一弾。ゲームの背景世界であるミッドガルドは、北欧神話をベースにした中世ファンタジー風世界であるが、テクノロジー信奉者の『真帝国』が悪役として配置され、伝統的なファンタジーの枠を超えたメカなどのSF風ガジェットも豊富である。この世界で、シャードと呼ばれる滅びた神々の欠片を手にしたプレイヤーキャラクター(クエスターと呼ばれる)が、世界の敵である奈落や真帝国と戦い、理想の世界アスガルドを目指して冒険する。

井上には、従来のテーブルトークRPGの世界設定が、コンピュータRPGなどと比べて保守的であるとの問題意識があり、二十一世紀にふさわしいファンタジーとして、剣と魔法の中世ヨーロッパ風ファンタジーの風景を世界観のベースにしながらも、そこにバイク、銃器、飛空艇、アンドロイド、ライトセーバー、戦車、ハンドヘルドコンピュータ、巨大ロボット、近代的軍隊といった近代・未来風ガジェットの導入を図った。ファイナルファンタジーシリーズなどの日本製コンピュータRPGの多くとも共通項を持つこうした「新しいファンタジー」の世界設定を指して、「新世紀スタンダード」と詠ったのである。

アルシャードff
『アルシャード』シリーズの第二弾で、初代『アルシャード』の改訂新版に当たる。

アルシャードは順調にサプリメントを発売していった結果、ゲームバランスの悪化やキャラクターメイキングに必要なデータがいくつもの本に分散するといった問題に直面するようになった。そこで、データ整理のために、今までの全てのデータをもう一度新しいルールフックと新しいサプリメントに再編集して出しなおすというバージョンアップを行ったのである。こうして2005年7月に発売されたのが、アルシャードの第2版(1.5版であるとも いう)にあたる「アルシャード フォルティッシモ」(「アルシャードff」)である。
ハンモ サイクロ ジャイル ダゴン ローツェ 夕立ち クフルト マーガ 白菜 エゴイ シプリン ヒート サテラ 黄昏 あくび ぞくげん スコール おきなれ プリスクール トーラス ブルー オートオオ レモンピー 天永 リュード フキ ギアシ ルクセン ジャイロ サイド ジェット ダックス フレア 四天王 マンゴー ピアニスト モヒカン ナビむつ デザイン キュー きつき ストップ じょうさい ヒヤシンス シュミナ リフネ メゾネット イング ダッシュ リング

基本的なルール構成はそのままに全てのデータを見直したこのバージョンは、あらゆる意味で今までのアルシャードよりも優れているという意味でフォルティッシモ(より強く)というタイトルがつけられた。

今までゲームを買ってきたユーザーに、もう一度ほぼ同じ内容のものを買わせるというのは商業的な難しさがあると言えるが、ダンジョンズ&ドラゴンズの3.5版への版上げのような先例もあり、決断がなされた。実際にはほとんどのデータはバランスよく見直されていて、全く新しい追加要素もふんだんにあるため、ユーザーはこの判断を比較的好意的に受け入れているようである。

2007年11月の時点で、アルシャード(初代)の要素のほぼ全てがアルシャードff(およびアルシャードガイア)のサプリメントにより再現可能となっている。F.E.A.R.は公式サイトにて、まだサプリメントをそろえていないユーザーのために、旧版のデータをアルシャードffにコンバートするためのデータを無料で公開している(ただしこれはあくまで最低限のコンバートしただけであって、アルシャードffやアルシャード・ガイアのサプリメントに掲載されている旧版のアップデートデータとはゲームバランスが全く異なっている)。

アルシャードガイア
2006年8月、アルシャードffとほぼ同一のシステムを使用した現代ファンタジーRPG「アルシャードガイアRPG」(菊池たけしとの共著)が『アルシャード』シリーズの第三弾としてファミ通文庫から発売された。こちらの舞台はブルースフィアと呼ばれる現代地球で、クエスターは奈落に汚染された敵と戦い、日常の平和を守る。

アルシャードフォルティッシモとの互換性は高く、双方のクラスやデータを混ぜて遊ぶことが可能となっている。この共通システムはガイア発売時に「スタンダードRPGシステム」と名付けられた。

アルシャードガイアもまた「スタンダード現代魔法ファンタジー」を謡い、ファンタジー以上に保守的であったTRPGの「現代もの」というジャンルに風穴を開けるべき様々な要素の導入を行っている。 「魔法や超能力や剣術の使い手が現代の闇に潜む魑魅魍魎を狩る退魔もの」という旧来からのスタンダードな現代伝奇やロー・ファンタジーのコンセプトを受け継ぎつつも、戦闘魔法少女や装着ヒーローなどのSFアニメ的ガジェットや、パラレルワールドやタイムトラベルが強くからむセカイ系の世界観などの、近年のライトノベルやノベルゲームなどによく見られるような「新しい伝奇SF」の流れをふんだんに取り入れており、これを井上は「スタンダード現代魔法ファンタジー」と名付けたのである。

2009年02月09日

君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと

摂政(せっしょう)とは、君主制を取る国家において、君主が幼少、病弱、国都不在などの理由で政務や国事行為を行うことができないとき、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。
『日本書紀』の中で神功皇后が執政した時期は「神功皇后摂政紀」と呼ばれているが、これは同皇后紀を呼ぶ場合の便宜的な呼称であり、摂政という用語は神功皇后紀の本文中には登場しない。また、神功皇后の実在についても疑問だとされている。一般には、日本史上における摂政とは天皇の勅令を受けて天皇に代わって政務を執ることまたその者の職であると定義される。『日本書紀』によると推古天皇のときの聖徳太子が摂政となったとされており、通説ではこれが日本史上における摂政の最初であるとされているが、この真否については学界でも賛否両論がある。

以降何人かの皇族が摂政を行ったが、律令において摂政を執る役職は規定されなかった。しかし、866年に藤原良房が皇族以外として初めて摂政をとって以来、天皇の外戚となった藤原氏(藤原北家)の者が摂政・関白に就く例が生まれるようになった。ただし、良房が摂政に就任したときには清和天皇は既に成人した後のことであり、幼少の天皇には摂政が、成人後の天皇には関白が置かれる慣例が確立したのは1代の天皇(朱雀天皇)の在位中に摂政から関白に転じた藤原忠平が初例であるとされている。
チルー オストメ ミモレ サイド ジャック プレクリ スコポフ きゅうてい スパイス ウフジ ラップ トーシュズ サイレン ノーカ キンセン チャイルド スター ホンコン デックス きゅう メトセク ルーキー バリヤー シュルレ フォトス フィブリン トリプタン ソユーズ ワゴン シェア すあわ ステージ ボケSEO ムルロ グルベド どふぇ ユニオ スマッ ブレテ アイス テーブル ファシズム 男船日本 未来地図 端玉アク シブシップ 長崎赤 ケイトウ モンゴ サイフォン

ここにおいて、摂政は天皇に代わって政務を執る者の職である令外の官として定義されることとなった。摂政は幼い天皇に代わって政務を摂する(代理する)とともに、当時において天皇の主要な大権であった官奏を覧ずることと除目・叙位を行うことを執り行った。

藤原氏のもとで摂政は職事官である大臣に付随して兼務する官職と考えられてきたが、寛和2年(986年)藤原兼家の時に職事官である右大臣を辞任して摂政のみを占める散官になった。この時、摂政の待遇に関して明法勘文と明経勘文が出された。前者においては、?三公(太政大臣・左右両大臣)は太政官の長官であるが、摂政は職事官ではない。?律令では、官人の序列は官位に従うとされ、原則は一位が筆頭となるが、職事官が散官よりも優先されるため、一位の散官は中納言の次、参議の上に相当する。?ただし、兼家は既に三公の待遇を上回る准三宮の待遇を受けており、三公より上位の席次が認められる。そうで無いとしても摂政任命の詔に「万機の勤」を命じているため、詔勅がその待遇を定めればこれに従う。とし、後者においては、摂政は三公とは別格で一般公卿と同列にすべきではない(従って、宮中に置いては三公より上位とすべきである)と論じた。

11世紀の藤原道長の頃からは建武の新政期を除いて常置の官となった。以降は外戚関係に関わりなく、常時摂政・関白のいずれかを藤原道長の子孫(御堂流)が占めるようになった。

鎌倉時代以降、藤原北家御堂流は近衛家、一条家、鷹司家、九条家、二条家の五摂家に分かれ、代々そのうちもっとも官位の高い者が摂政・関白に任ぜられる例となって、明治維新まで続いた。この例外は、藤原氏以外で関白となった豊臣秀吉と豊臣秀次の2名である。ただし、藤原氏以外で摂政となった人物は、平安時代から江戸時代までには存在しない。

明治維新以前の摂政は、詔書の代筆、叙位・任官の施行など、天皇の行う政務のほとんど全てを代行し、その権限はほとんど天皇とかわりなかった。

1868年、王政復古クーデターにより摂政二条斉敬を罷免。摂政職は関白職、征夷大将軍職ともども廃止され、満15歳の明治天皇が親裁する建前となった。

近現代
1889年、大日本帝国憲法および旧皇室典範により、天皇が成年に達しないときや、大政を執ることができないとき、天皇に代わって摂政が置かれる皇族摂政の制度が定められた。摂政は天皇とほぼ同等の権限を有したが、憲法改正と皇室典範の増補(改正)に関する権限はなかった。大正天皇晩年の1921年より1926年の崩御まで皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が摂政をつとめた。この間摂政宮(せっしょうのみや)とも称された。

1947年施行の日本国憲法、新皇室典範でも摂政の制度が改めて定められた。日本国憲法の定めるところでは、摂政は、天皇の名でその国事行為を行う職であり、国事行為に関する権限は天皇と全く同等である。天皇が成年に達しない時、重患や重大な事故によって国事行為を行うことができないと皇室会議で判断された時に置かれる。

摂政に似たものとして、国事行為臨時代行が挙げられる。天皇に入院や海外訪問などの疾患又は事故がある場合に、内閣の助言と承認に基づいた天皇の委任(国事行為臨時代行への勅書の伝達)によって国事行為の臨時代行が行われる。これは、摂政を置くほどのものでない天皇の疾患や事故がある場合に国事行為を委任することができるようにするために設けられた制度である。

日本国憲法下で、現在まで摂政が置かれた例はない。

摂政及び国事行為臨時代行は、成年に達した皇族が次の順位で就任する。

皇太子、皇太孫
親王及び王
皇后
皇太后
太皇太后
内親王及び女王
なお、女性でも就任可能な点は、皇位継承との違いである。しかし皇后、皇太后、太皇太后に関しては、民間出身者が天皇の代行として摂政位に就き、国事行為を行う是非を議論された事はなく、将来そのような状況になった場合、非常に難しい問題に発展する可能性があると懸念されている。この場合の解決策として、皇后、皇太后、太皇太后の場合は皇族出身である事が摂政就任の条件とする意見もある。

現在の摂政就任順位
皇太子徳仁親王(1960年生)
秋篠宮文仁親王(1965年生)
常陸宮正仁親王(1935年生)
三笠宮崇仁親王(1915年生)
?仁親王(1946年生)
桂宮宜仁親王(1948年生)
皇后美智子(1934年生)
彬子女王(1981年生)
瑶子女王(1983年生)
承子女王(1986年生)
典子女王(1988年生)

中国の摂政
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
中国では皇帝が執務不能である場合に皇族が監国として政務を主宰する例がある。監国には主として皇太子が就くが、清では皇帝の叔父(ドルゴン)や実父(醇親王載灃)が摂政や監国として政務を執った例がある。また歴代王朝を通じて皇太后が垂簾聴政を行う場合もある。

チベットの摂政
チベットにおいては、チベット仏教の最高指導者と政治上の最高指導者を兼ねるダライ・ラマ(法王)は、死去した後も転生によってこの世に生まれ変わり続けると信じられていた。ダライ・ラマが逝去した際にはチベット仏教の高僧の中から摂政が任命され、転生者の捜索の責任を負うととともに、新ダライ・ラマが成人するまでの間の政治の全権を掌握した。現在のダライ・ラマであるテンジン・ギャツォ(ダライ・ラマ14世)の場合にも、即位の1940年から中国人民解放軍のチベット侵攻後の1950年までの間は摂政(初期はレティン・リンポチェ、後半にはタクバ・リンポチェ)が置かれていた。

西洋の摂政
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
東ローマ帝国では聖職者の長であるコンスタンティノポリス総主教が摂政役を務めたこともある。また、戦間期のハンガリー王国におけるホルティ・ミクローシュのように、君主が不在のまま摂政のみが置かれることもある。

2009年01月24日

中国官話

キシラン ノート ローズ マッハ リボ デリバラ 田舎国 ゴマナ ゲート フォトモ ザンス カッコー コッチ チリン シャー タジーン メーカ ディング モード アップ クロゼ レイオ モラトリ ダイキリ サイリウム レセプト クオリア ロトロン シーラーズ プルマン タリフレ ハッチ カップ ブローシャー オレキシン タバーン ノード ビッシング ヒットラー タッチ きくま 深呼吸 ゾディア はつう パラコート マスコ 和銅 しちの トラック ビヨウ

中国官話は中国語の方言区分の一つ。官話方言(かんわほうげん)ともいわれる。言語としては広義の北方方言(ほっぽうほうげん)、北方話(ほっぽうわ)、北方語(ほっぽうご)、北語(ほくご)などの呼称がある。また共通語という意味で官話(かんわ)も用いられる。なお方言区は北方のみならず南方にまで及んでいるため、「北」とすることに異議が唱えられることもある。欧米ではマンダリン(Mandarin)と言われる。普通話の基礎となる方言である。

中国官話の代表は、北京語・天津語・東北語・西安語・成都語・南京語・揚州語などである。中国の東北・華北・西南・江淮一帯の広い範囲に及んでおり、その使用率は漢民族人口の73%を占める。ただし山西省を中心に話され、太原語を代表とする晋方言(晋語)は独立した大方言区とすべきとの意見がある。また下位方言の江淮方言(下江官話)については呉方言に含めるべきとの意見もある。これは他の中国官話では消滅した入声(音節末子音が閉鎖音のもの)があるためである。

中国官話はさらに4大下位方言に区分される。

華北東北方言(北京官話 、東北官話、冀魯官話、膠遼官話)- 北京・天津・黒竜江省・吉林省・遼寧省・河北省・河南省・山東省と内蒙古の一部。
西北方言(中原官話、蘭銀官話) - 陝西省・甘粛省・山西省の全域と青海省・寧夏・内蒙古の一部、及び中央アジアのドンガン人居住区。
西南方言(西南官話) - 四川省・雲南省・貴州省、湖北省の大部分、広西省西北部、湖南省西北部。
江淮方言(江淮官話) - 安徽省・江蘇省の長江以北の地域(ただし、徐州・蚌埠は除く)、江蘇省の鎮江以西から江西省九江以東にいたるまでの長江南岸地域。

共通語
中国官話が官話と呼ばれるのは、17世紀、華南に渡来した宣教師が,土着の言語のほかに官署で話されている公用語があることに気づき、これを官僚(マンダリン Mandarin)の言語と呼んだことに由来する。当時、官話の規範となったのは南京の音にもとづく南京官話であった。清朝になると漢民族を征服した満洲民族が北京を首都としたため、官話の中心は徐々に北京音をもとにした北京官話へと移っていった。清代の官話政策は、雍正期に提議され、福建省には「正音書院」と呼ばれる官話の音を学ぶ書院が立てられ、広東省には民間の粤秀書院などを支援して官話教育を担わせた。また教科書として『正音摂要』『正音咀華』などがつくられている。中華民国に入ると、国語運動がおこり、官話を国語という名称に変えて共通語とする政策がなされたが、北京官話とか官話といった名称は依然として使われた。中華人民共和国が成立してからは北京語音を標準音とし、中国官話の語彙をもとにして、共通語である普通話が作られた。

満洲語の流入
清朝の約300年の支配の間にはぐくまれた北京官話には支配民族である満州民族の言語満州語の語彙が幾つか含まれている。これらは、おもに宮廷で使用されたものであるが、『太太(おばちゃん)』などは現在も一般に普及している。

普通話はこれら満州語の語彙を排除したものである。この点ではオスマン帝国のオスマン語とトルコ語の関係と似ている。

方言・言語
官話は上記のように本来は官僚の共通語の意味であるが、現在は方言名・言語名として使われることがある。この場合、「?方言」という代わりに「?官話」ということがある。

特徴
清濁の対立 - 存在しない。
歯擦音 - 歯茎音[s, ?, ??]とそり舌音[?,?,??, ???]の区別が存在する。
鼻韻母 - [n]と[ŋ]の区別はあるが、[m]はなく[n]に合流している。
入声 - 大部分の地域では消滅しているが、いくつかの地域には[?]が見られる。
声調 - 一般的に4つであるが、3つや5つの地域もある。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%AE%98%E8%A9%B1" より作成

2009年01月17日

前イスラーム期

前イスラーム期の歴史叙述では、古典古代の諸言語における「ペルシア人」を受け継ぎ、ハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)やサーサーン朝の人々に対する民族名称として「ペルシア人」が頻繁に用いられる。この文脈におけるペルシア人は、これら「ペルシア帝国」の主要な担い手となったパールサ地方の人々のみならず、ハカーマニシュ朝やサーサーン朝の民というような意味合いを帯びることもあり、この意味では、西方において半独立の辺境域の人びとでもペルシア人と呼ばれることがある。

こうした傾向は古代ギリシャ語・ラテン語を主たる史料とするローマ帝国史のみならず、ペルシアそれ自体を研究するペルシア帝国史においても同様である。この事情は近代以降のヨーロッパだけではなく、ヨーロッパから歴史学を西洋史学として輸入した日本においても長らく同じであり、特にペルシア帝国史の専門研究の外に対しては「ペルシア人」の用法は深く定着しているといってよい。

マルバタ クロスレ シュール しばざくら アスク たいざん ロスカ チーズ 白爵南瓜 モルガ ユーボ 冬の星座 ライオン いろはに ピーク ハスカ リッペ リーズ ダイヤ 雪の駅 マネタ ファース グラス おくやま スピンオフ スカッド レンジャー レジスタ バルキー 寄居かぶ メキシコ へきぎょく ダージジ パサク はま スティン つるむら 京野菜 コリンズ プール ギミッ デカル マンネリ ハイガイド トークッシ ロンティー サイトバラ メガ最適 ミズム どうちゃく

しかし、近年はハカーマニシュ朝史、サーサーン朝史の叙述では、それぞれの帝国にかかわった各集団を厳密に定義して呼び分け、全体を漠然とペルシア人ということは少なくなりつつある傾向がみられる。この背景には、研究の深化や、従来の近代ヨーロッパからの東洋研究において東洋と西洋を対置し、東洋を非普遍的なものとして位置づけるオリエンタリズム的な視点が関わっていたことへの批判の存在が指摘できる。

一方、この時代の中央アジア方面のペルシア語系の言語の話者については、従来からソグド人やイラン系といった用語が日本の歴史研究では好まれてきた。東からの視点で「ペルシア」が叙述される際には、「ペルシア人」はサーサーン朝治下の人々を限定的に指すことが多い。

こうした東洋史研究者の用例は、一般的な日本語における広義の「ペルシア人」の定着と比べるときわめて対照的である。東洋史研究において漠然とした「ペルシア人」の呼称が好まれない理由としては、西方の場合と同様に、広義の「ペルシア人」の用法がオリエンタリズム、あるいはその日本における特殊な形態であるシルクロードイメージと密接に関連するため、研究者の文脈では好まれないという背景が指摘できる。日本において東からの視点で「ペルシア人」を語る際には、例えば正倉院の中央アジア伝来の宝物に対するロマンチシズムと結びつき、はるかシルクロードの彼方から訪れた幻想的な人びと、「天平のペルシア人」といったイメージが付与されがちであり、古代の「ペルシア人」はシルクロードイメージと強く結びついてしまった。

こうした古典的なシルクロードイメージは、かつて日本で盛んであった東西交渉史研究とも関係が深いが、現在の日本の中央アジア史や中央ユーラシア史、インド史研究からは、シルクロードの叙述は中国とローマ・ペルシア間の東西長距離交易を強調して中央アジアを単なる通過点とする視点に偏っており、実際にはオアシス間・南北交易も盛んであった中央アジア史の実際を誤ってとらえさせるものとする批判に耐えられなくなっている。このような事情により、現在の日本の東洋史研究では広義の「ペルシア人」はほとんど使われることがなくなってしまった。

イスラーム期
勃興から短期間のうちにサーサーン朝の旧域をほとんど支配するにいたったイスラーム勢力のもとでは、当初サーサーン朝の地方行政組織が温存され、サーサーン朝の人々はゾロアスター教を信じ、ペルシア語を母語とするままイスラーム勢力の支配下に入った。初期イスラーム史で「ペルシア人」といわれているのはこうした旧サーサーン朝の人である。

また、アラブ人は彼らを前述したようにアジャムと呼んだが、アラビア語史料上のアジャムも歴史叙述の上では「ペルシア人」と言い換えられることがほとんどである。アッバース朝革命でしばしば言及される「ペルシア人」は、こうしてアラブに対してアジャムと呼ばれたイラン高原周辺の人々であり、アッバース朝期にイランで成立した諸王朝が「ペルシア人の王朝」と呼ばれるのは、これらを建国した王家がアラブではなくアジャムの出自をもっていたからである。

後の時代にこの地方の歴史の新たな担い手としてテュルク系の民族が流入してくると、歴史叙述上の「ペルシア人」はテュルクに対してイラン人あるいはタジク人と自称した人々を指すようになる。

サファヴィー朝とシャイバーン朝のもとでのイラン世界の東西文化が進むと、歴史叙述で使われる「ペルシア人」はサファヴィー朝治下の、主にシーア派を信仰するペルシア人たちを限定的に指すことが増え、狭義の「ペルシア人」である現在のファールスィーに意味あいが近くなる。これに対して、シャイバーン朝以降の中央アジア方面では「タージーク」という記述が多くなり、中央アジアのペルシア語を語る人びとを「ペルシア人」と呼ぶことは相対的に減少する。

ガージャール朝のころになると、日本語の歴史叙述ではもはや「ペルシア人」という呼称はあまり用いられず、もっぱら「イラン人」となる。現代の文脈では、イラン人のうち特に民族分類上「ファールスィー」に属する人を特に指したいときにのみ「ペルシア人」が使われていると言ってよい。